剱御前小舎誕生秘話昭和5年の新聞記事に見る剱御前小舎の誕生の物語


 
 当初、昭和8年に建設されたと言い伝えられていた剱御前小舎は、発見された古い新聞記事から、昭和5年
6月25日に建てられていた事が解った。
 僅か80年前の事だが、人の記憶の何と曖昧なことか・・・!ここに当時の新聞記事を基に、剱御前小舎誕生
経緯の再検証を試みる。


昭和5年1月剱沢で雪崩事故発生
  この事故は昭和5年1月、立山ガイド佐伯福松、佐伯兵次(宗作の実弟)に案内された、窪田他吉郎、田部正太郎、松平日出男、土屋秀直
各氏4名が厳冬の剱岳登山に挑み、剱沢小屋において就寝中、雪崩の直撃を受け6名全員遭難死するという、立山遭難史上希にみる大惨事
となったもので、「剱沢に逝ける人々」(復刻日本の山岳名著−昭和51年9月大修館書店発行)という著作に詳細が綴られている。
 又新田次郎著「孤高の人」の主人公、単独行で高名な加藤文太郎氏がこの一行のトレースを追い、歓迎されざるまま剱御前まで行き、一行
が剱沢小屋に入った事を確認し、その後自らは下山途次の1月4日、別行動の宗作がガイドする同志社大学児島氏一行と弘法小屋にて会い、
その旨を告げたと伝えられている。
 この一行のメンバーの一人土屋秀直氏は土屋直正侍従(子爵)の子息で有り、一行の帰京予定の遅れを心配した家族からの連絡で、捜索隊
が組織され入山したのは1月10日のことであり、その捜索隊一行と、悪天候で行動を断念し下山した宗作のガイドする児島氏一行は材木坂で
出会い、宗作は実弟兵次のガイドする一行の身を気遣いながらも、1月4日、剱沢小屋に全員入った事が(加藤氏により)確認されているを伝え、
捜索隊の兄栄作等に「悪天候をさけて剱沢小屋に避難しているだろう」と伝えたという。

 1次の捜索隊が悪天候に阻まれ音信無く、立山に精通した名ガイド佐伯八郎と宗作が特に指名され14日に捜索に参加せんと入山したが、
両者は下山してきた1次の捜索隊と材木坂で会い、「剱沢に小屋がない。間違いなく雪崩でやられた。一行の遺留品も確認した。」という悲報に
接するのである。
 この剱沢の悲報は一行の安否を気遣う家族、世人の耳朶に驚愕と戦慄を伝えた。
 
 翌1月15日、立山ガイド33名を中心とした捜索隊が入山。
新聞記事1.
(以下,何れも北陸タイムス昭和5年1月21日付け)


 記事2.


記事3


 記事4.


記事5.


記事6.
 

  記事7.


 記事8.


昭和5年 新別山乗越小屋(剱御前小舎)建設計画から竣工まで

 この遭難を受けて、芦峅寺の立山ガイド達は,冬期間の剱岳登山基地として、別山乗越に山小屋建築の必要性を痛感した。
 そしてこの新別山乗越小屋の建築推進を一番強く訴えたのが、何と立山ガイドではない、当時の芦峅寺村幹部役員であった
日光坊六二代目当主、僧侶の佐伯義道(親爺の母方の祖父)であったと言う。 
 新聞記事1.

               
 昭和5年1月の剱沢雪崩遭難事故から1月もたたぬ2月7日付の北陸タイムスの記事。
 この時点で、早々と剱沢コンクリート製避難小屋と、新別山乗越小屋建設の二つの案が出されていたことが解る。
 現時の剱御前小舎の稜線上での万年水不足は、この時点で既に指摘されている。


  新聞記事2.北陸タイムス昭和五年2月15日付け記事。

   
 奇しくも剱沢で無念の遭難をした佐伯福松が、生前から別山乗 越に山小屋を建設する事を夢見て、既に活動を始めてい
た事が解る。    

 新聞記事3.北陸タイムス昭和五年2月18日付け記事

            
 現在も剱御前小舎が抱える水利問題が取り上げられ手いて興味深い記事である。
 剱御前小舎下部剱沢よりにあるハマグリ雪渓から動力ポンプにより剱御前小舎へ水を上げ得るようになったのはこの後四半世紀を経た昭和30年代、父宗弘が、広島県へ特別注文した発動機付きポンプによってであった。


 新聞記事4.北陸タイムス昭和五年5月10日付け記事

   
 詳細な事情は解らないが、芦峅寺の村を二分する様な小屋新築の意見があったことは確かである。
 現在の剣沢小屋は親爺が兄とも慕う又従兄弟の佐伯友邦兄(佐伯文蔵の長男で、グルジャヒマールの初登頂者)の経営で
ある。
 確かに当時としてはモダーンな洋館だったのだろう。
 二階建てというのもこの風当たりの強い別山乗越では意外だったに違いない。

 新聞記事5.北陸タイムス昭和五年5月22日付け

            
 一寸由々しき記事である。
 当時の芦峅寺の村を2分する意見はついに衝突し、対立に至ったのだろうか?
 まあ当時に新聞記事、事の真実が必ずしも正確に報道されているかどうか・・・・・・・。
 既に当時のこの問題を知る人は全て鬼籍には入っており、詳しい事は知る由もないが、現在の剣岳周辺には、剣沢小屋、剱御前小舎、そして剣山荘(戦後、昭和30年代初頭、建設。)の3つの小屋があって、とても仲良くやっている。


 新聞記事6.北陸タイムス昭和五年5月22日付け
  
  当時の無線電信技術がどの様なものであったのかはともかくこの話は実現したのであろうか?


 新聞記事7.
北陸タイムス昭和五年6月7日付け

          
 斯くの次第で、剱御前小舎は昭和五年六月二五日建設されたので有りました。
 この剱御前小舎を経営しながら、この事実を親爺が知ったのは二十年を経てからのことでした。
 剱御前小舎は現在も芦峅寺の共有財産として管理運営されております。

 

 親爺は昭和53年より39年間、この剱御前小舎を経営してまいりましたが、平成28年のシーズン一杯を以て
 剱御前小舎の経営から引退いたしました。
 長い間皆さまや若いスタッフたちに支えられ、つつがなく立山を仕舞うことが出来ました。
 ここに皆様に深く感謝申し上げます。                                                                                 平成28年霜月 親爺64歳の初冬

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